安倍晴明

安倍晴明という人物

安倍晴明のイメージ

日本には平安時代末期から明治時代まで、陰陽寮と呼ばれる部署が政府内に存在していました。これは、占い・天文・時・暦の編纂を担当する部署であり、陰陽師はこの中で、吉凶占いと方位占いの専門職員として活動していました。安倍晴明は、10世紀半ば頃に陰陽師として活躍した人物です。

安倍晴明は921年に生まれ、陰陽道と天文学を学んだ後の948年に官職につき、960年からは陰陽寮内でその実力を発揮したといわれています。陰陽寮内での地位は長である陰陽頭に至りませんでしたが、実生活では政治的重要人物たちの信頼を受け、さまざまな占いや儀式を行った記録と伝説とが残されています。晴明は1005年に85歳でなくなりましたが、結婚して恵まれた息子2人はともに晴明の跡を継いで天文道や陰陽道に通じる任に就き、彼の子孫はその後陰陽道の一家として発展していきました。

安倍晴明と陰陽道

晴明と切っても切れないのが陰陽道です。彼自身は陰陽寮内の役職だけでなく主計権助、左京権太夫、播磨守などを勤め、陰陽師として専門に活動していたわけではありませんが、彼の陰陽師としての能力は確かだったようです。彼の出自は確かではありませんが、既に陰陽師として名高かった賀茂忠行・保憲父子から陰陽道と天文道を学び取り、陰陽寮に所属している間は国のために、それ以外の時には天皇や貴族の個人的な求めに応じる形でさまざまな占いや祈祷を行い、依頼者を満足させる結果を引き出すことで、信頼を集めていきました。これらは、公的な書物だけでなく時代の重要人物たちの日記にも書き遺されていることから明らかです。陰陽道は晴明以前にも科学の未発達な世の中で重要な役割を果たしていましたが、晴明という能力の高い陰陽師が現れたことで、より光の当たる分野となり、人々の注目を集めるようになっていったのです。

安倍晴明を信じた歴史上の人々

実際に晴明の陰陽道の恩恵を受けたり、その効力を目の当たりにした人々には、花山天皇、一条天皇、藤原道長といった政治的中心人物が名を連ねています。花山天皇は側近の裏切りにあい、人知れず出家し譲位してしまいますが、晴明は天文道によって天(天皇)の異変を見ぬき朝廷に駆けつけようとしたものの間に合わなかった、という逸話が残っています。また一条天皇の御世では、深刻な干ばつに晴明の雨乞いが効果を発揮して天皇から褒美が下されたとの記録が残っています。さらに藤原道長は、毒蛇入りの瓜や愛犬のあやしい行動の意味などを晴明に改めさせ、呪詛を解いてもらっています。これらからは、晴明が平安時代の政治的儀式やその中心人物たちの身の危険を払う役割を担っていたことが分かります。

現在にも影響を与え続ける安倍晴明の術

晴明は都をはじめとした、国の要所に結界を張って守り固めました。また、退治した鬼や物の怪たちは塚に納めてその霊力を閉じ込め、晴明の墓所だけでなくゆかりのある地には晴明塚が建立されてその地を守っています。晴明や晴明の跡を継いだ陰陽師たちの術は、彼らの亡き後現在に至るまで解かれることなくその場所を守り続けているのです。さらに、晴明が世にその効力を知らしめた陰陽道は、晴明の子孫である土御門家を中心として今も受け継がれています。

小説や映画、ゲームなどでその名が広く知られるようになった安倍晴明ですが、彼自身の実録はあまり残されていません。彼の陰陽師としての活躍の数々は、彼に守られ助けられた人々によって書かれた記録と後の世の人々が拾い集めたものであり、逸話であるのは確かですが実話かどうか明らかでないものがほとんどなのです。しかし、安倍晴明という陰陽師が存在し、彼が陰陽道を使って活躍したこと、時代の中心人物たちにとって必要不可欠な存在であったことは間違いありません。時代の変化の中で一時はその存在が薄れた陰陽師安倍晴明ですが、今再び彼の存在が注目を受けているのは、マスコミなどの影響だけではなく、現在の世の中が超自然的な彼の能力を必要としているからなのかもしれません。