山岳信仰

山岳信仰とは

山岳信仰のイメージ

山岳信仰とは、日本に古来からある自然崇拝の一種で、宗教とは異なったものです。仏教が入って来る以前の日本では、自然の恵みや恐れを「神」としてあらわしていました。山岳信仰はその中で、山からの恵みや恐れを神として奉る自然崇拝だったのですが、そこに大陸より、日本古来の神々への信仰と仏教を結び付けたい、神仏習合(しんぶつしゅうごう)が入ってきます。この神仏習合が奈良・平安時代以降、日本人の信仰の主流となり、山岳信仰も多くは仏教と結びついていきました。

日本人と山岳信仰

日本人は大昔から山、川、海の自然に囲まれた地で生活し、とくに国土の7割を占める山は、実生活の面でも精神的な面でも、とても重要な存在でした。山は食糧を豊富に与えてくれる場であるほかに、神や祖先の霊、そして時には妖怪や怨霊も住む、恐ろしい場所だともされてきました。雄大で厳しい自然の中で生きるうちに、山を恐れ敬う感情から生まれたのが山岳信仰です。

特に山岳信仰が盛んなのは、険しい地形を持つ山が多い内陸山間部で、そのような地域では目の前にそびえる山やそこから流れ出る川、山すそに広がる森林に生活のすべてを頼っているので、常に目にする山からの恩恵に感謝し、時には命を奪う険しい山に恐れをいだいてしました。そして人々は、山の神を敬うための祭祀を行ったり、山の機嫌を損ねないよう、様々な禁忌を作りながら暮らしていたのです。また、農村部では水源であることと関連して、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという信仰も生まれました。

古神道における山岳信仰

日本の古神道、仏教などの外来の宗教が入って来る以前に存在していた宗教でも、山岳信仰の姿を見ることができます。古神道では、山や森をいだく山は神奈備(かんなび)という神が鎮座する山とされ、神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられていました。そして、時として磐座(いわくら)・磐境(いわさか)という常世(とこよ・神の国)と現世(うつしよ・人の国)の端境として、祭祀が行われてきました。また、死者の魂(祖霊)が山に帰る、山上他界という考えもあります。これらの伝統は、その後神社神道にも受け継がれ、石鎚山(いしづちさん)や諏訪大社、三輪山(みわやま)などが、山そのものを信仰対象としています。

仏教と山岳信仰

仏教では世界の中心に須弥山(しゅみせん)という高い山がそびえていると考えられており、その考えをもとに空海が高野山を、最澄が比叡山を開くことなどで、山岳信仰に基づく山への畏敬の念は、より一層深まっていきました。平地にあっても仏教寺院が「○○山××寺」と山号を付けるのは、このような理由があるからです。

また、仏教に山岳信仰が取り入れられ、日本独自の宗教である修験道(しゅげんどう)・修験宗(しゅげんしゅう)という宗教が誕生しました。修験道は日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷(しんざんゆうこく・人跡未踏のような奥深い自然の地)に分け入り、厳しい修行を行うことによって、功徳(くどく)のしるしである験力を得て、衆生(しゅじょう・命あるすべてのもの)の救済を目指す実践的な宗教です。 この山岳修行者のことを、「修行して迷妄を払い、験徳を得る・修行してその徳を驗(あら)わす」ことから、修験者(しゅげんじゃ)、または山に伏して修行する姿から山伏(やまぶし)と呼びます。

修験道の修行の場は、日本古来の山岳信仰の対象であった大峰山(おおみねさん)や白山(はくさん)などの霊山とされた山々で、中でも、熊野三山(くまのさんざん)への信仰は平安時代の中期から後期にかけて、天皇をはじめとする多くの貴族たちの参詣を得て、隆盛を極めました。

中国の山岳信仰

中国において泰山(たいざん)、衡山(こうざん)、嵩山(すうざん)、華山(かざん)、恒山(こうざん)は五岳(ごがく)と呼ばれ、神格化されています。本来は山自体を信仰する山岳信仰であったと考えられますが、いつの間にか盤古(ばんこ)神話や五行思想と結びつき、道教の諸神の一つに変容しました。しかし、泰山についてはいまだに別格で、道教の聖地であるだけでなく、岱廟(たいびょう)、石敢當(いしがんどう)など、他と異なる山岳信仰の形態を残しています。

山岳信仰の形態

火山への信仰

富士山や阿蘇山、鳥海山(ちょうかいさん)などの、火山噴火への恐れから火山に神がいるとして信仰している。

水源である山への信仰

白山など、周辺地域を潤す水源となる山を信仰としている。

死者の霊が集うとされている山への信仰

恐山(おそれざん)や月山、立山、熊野三山など、死者の霊が死後そこにいくとされている山が各地に存在しており、それらの山々を信仰としている。

神霊がいるとされる山への信仰

宇佐神宮の奥宮である御許山(おもとさん)や、大神神社の御神体とされる三輪山、役小角(えんのおづぬ)が開いたとされる大峰山など、山としては規模が小さいけれど神霊がいるとされ、それらの山を信仰している。

山岳信仰と登山

チベット仏教にも山岳信仰に似たものがあり、聖なる山を信仰の対象として、信仰を山に捧げるので、その山に登ることはほとんど禁忌とされています。しかし日本では、山岳信仰を対象とする山々の、その山頂に達することが重要だとされています。なぜなら、日本人は山自体を信仰すると同時に、そこから早朝に拝む「ご来光」を非常にありがたがる傾向が強いからです。

その原因としては、山頂のその先、彼方にあるあの世を信仰しているからだといわれ、またそこに、太陽信仰の自然崇拝があるとも考えられています。

現代では人跡未踏の地であった山岳にも、交通網の発達や装備の充実から、登ることが簡単になってきました。そのため、スポーツや観光として様々な人が山に入り込み、信仰における禁忌を破ったり、ゴミの放置などで自然環境を汚染する行為や、過信から起きる登山事故などが増えており、海外では、山岳信仰を尊ぶ地域住民の感情を害することも多く起るようになりました。

登山者が信仰の禁忌を犯した場合には、地域住民は山から罰が下ると信じ、山をなだめるために大規模な祭事を行う場合があります。大規模な催事は、地域住民に対し精神的な負担、経済的な負担を強いる大きな問題なのですが、そのことがきっかけで現在では、山岳信仰という自然と共存するために培われた精神性が見直されるようにもなってきました。