御霊信仰

御霊信仰とは

御霊信仰のイメージ

御霊信仰とは、「強い怨みを持って亡くなった霊は復讐のために祟る」という考えの元に生まれた信仰で、奈良時代から平安時代に広まったとされています。その頃は、死者の怨念は疫病や天災を巻き起こし、無関係の人々まで苦しめるほど凄まじい力を持つと信じられていました。そこで、そのように強大な力を持った怨霊を丁寧に祀り、怨霊ではなく鎮護の「御霊」として崇めることにしたのです。尊い存在として崇めることによって祟りを避け、逆に恩恵を受けたり護ってもらったりしようと考えたのでした。

御霊神社

御霊神社とは、御霊信仰に則り非業の死を遂げた人物を神として祀っている神社のことです。御霊神社は全国各地にありますが、先祖を御祭神として祀るところもあれば、複数の御祭神を祀るところもありさまざまです。御霊信仰の祭神にまつわる詳しい歴史を知ると若干恐ろしい印象を持ちますが、現在各地に存在する御霊神社は決してそのような恐怖を感じる場所ではありません。むしろ、恋愛や学問、ビジネスや安産の神様へと大きく変化し、「怨霊」からは大きくかけ離れた印象を持ちます。

有名なのは、京都の上御霊神社と下御霊神社です。上御霊神社は政争に巻き込まれて失意のなか命を落とした8人の御霊が主祭神となっています。一方下御霊神社は、冤罪で亡くなった8人の御霊が主祭神となっています。いずれも天変地異や疫病の流行が相次いだことで創設されました。また、御霊の魂を慰めるためのお祭りを御霊会(ごりょうえ)と言い、現在の京都の夏祭りの多くは、御霊神社発祥の御霊会であったと言われています。

日本三大怨霊伝説

どのように御霊信仰が発生するのかがよくわかるため、日本三大怨霊伝説を紹介します。現代人が健やかにお参りをしている神様も、始まりは怨霊として恐れられた凄まじい過去があるかもしれません。

菅原道真

学者の家に生まれた道真は非常に優秀で、寛平2年に宇多天皇の側近となり、その後醍醐天皇の時代になっても出世を重ねて右大臣にまでなった人物です。しかし、それを妬んだ藤原時平が醍醐天皇に嘘を吹聴し、道真は無実の罪で大宰府へ左遷されてしまいました。道真はその2年後、失意のもとに非業の死を遂げることとなったのです。

道真の死後、都では疫病の流行、大火事、宮廷への落雷、道真を左遷に追い込んだ藤原家一族の急死や狂死など、立て続けに不運な出来事が起こりました。人々はこれらの出来事を全て道真の祟りだと信じ、道真の怒りを鎮めるために、現在も京都にある北野天満宮を建てたのです。それ以降、一連の災いは落ち着いたとされています。当初、道真は天神として祀られていましたが、現代では生前の道真の利発さから「学問の神様」として多くの人々に敬われています。

平将門

延長9年頃、将門は関東を支配するほどの力をつけたことで朝廷と対立関係になりました。自らを「新皇」と名乗って関東の独立を企てたものの、天慶3年に平貞盛、藤原秀郷の兵による矢が額に命中して命を落としました。戦いに敗れた将門の首は平安京に移され、河原でさらし首にされました。将門の首は3ヵ月たっても腐らずに目を見開き、夜になると「首をつないで一戦しよう!」と叫び続け、東国のほうへ高く飛び立ったと言われています。その将門の首が落下したと言われているのが、有名な「将門塚」が祀られている東京都大手町です。嘉元1年、将門塚は荒れ果て、恐ろしい事に振動したり光を放ったりしていたといいます。周辺には疫病が流行し、将門の祟りだと囁かれていました。そこで、噂を聞いた真教上人が塚を修復し、近くの日輪寺と神田明神に将門の霊を祀ったところ、疫病はたちまち収束したと言い伝えられています。そんな恐ろしい将門塚ですが、近年はその力強い伝説から強力なパワースポットとして扱われ、多くの人々が手を合わせています。

崇徳天皇

保安4年に天皇に即位した崇徳天皇は、父親の鳥羽上皇から疎んじられる複雑な環境で育ちました。やがて、親族間での権力闘争に敗れた崇徳天皇は皇位をはく奪され、讃岐へ流刑となったのです。そこで行った写経を弟の後白河天皇に送り、せめて自分の代わりに京の都に収めてほしいと頼んだところ、呪詛ではないかと疑われて送り返されたといいます。父親にも弟にも裏切られた崇徳天皇は、絶望と怒りで舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇をとって民を皇となさん」と写経に書き足しました。その後、長寛2年に生涯を閉じますが、崇徳天皇の遺体が入った棺桶からは血が溢れ続けて辺りを赤く染め、荼毘の煙は風向きに逆らって都のほうへ流れ続けたと言われています。 崇徳天皇の死後、白河天皇の周囲では変死や不幸が頻発しました。朝廷の建物を次々に焼失させる大火事や強風、飢饉、天皇の権威失墜などが続き、人々はその異変を崇徳天皇の祟りだと信じて疑いませんでした。後白河天皇は怨霊鎮魂のため、「崇徳院廟」を設置。他にも複数の神社で祀ったとされていますが、その後も日本では100年ごとに大きな災いが起きました。そして慶応4年、とうとう明治天皇が崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させ、「白峰神社」を創設したのです。現在、白峰神社は球技上達の神様として人気があり、崇徳天皇について明るくない多くの若者がお参りに訪れています。

どれだけ恐ろしい怨霊でも、畏怖の念を持って丁寧に祀れば、自分たちを守ってくれる神様になるという考え方。昔の人達が見えない存在とその影響を当たり前に信じ、尊重していたことがよくわかります。揺るがない信仰心は知らず知らずのうちに現代の日本人にも引き継がれているでしょう。