血天井

京都には天井に血痕が付いた寺院がある

血天井のイメージ

慶長5(1600)年、関ケ原の戦いの前哨戦ともいわれる「伏見城の戦い」で、徳川家康(1543~1616)の家臣・鳥居元忠(1539~1600)らと350名以上の兵士たちが自害しました。

家康は、最後まで城を守り抜こうと戦い抜いた彼らの忠義に感激。供養のために、その時の血痕が残る床板を、徳川家にゆかりのある寺院の天井として張り替えました。これを「血天井」と言い、京都市の養源院、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺などに今も残っています。天井板にしたのは、「家臣たちの尊い犠牲を、誰にも踏みつけにされないようにするため」と言われています。

「伏見城の戦い」とは

時は遡り、慶長5(1600)年6月。豊臣秀吉が没し、徳川家康は反逆の疑いがある上杉景勝を討伐するため、大阪城から会津へと出兵しました。その道中、鳥居元忠のいる京都の伏見城に立ち寄ります。酒を酌み交わす中で、家康は「配下の兵士が不足しており、伏見城に残せる兵力はわずかしかなく、苦労させてすまない」と元忠に詫びました。それに対し、元忠は「会津は強敵ですから、一人でも多くの家臣を連れていくべきです」「殿が天下を取るために、一人でも多くの家臣を城から連れ出してください」と返したと記録されています。天下泰平のためなら、自らの死を厭わない元忠の覚悟が読み取れます。家康はこの言葉に深く感謝をし、2人は夜遅くまで昔話に花を咲かせました。

そして同じ年の7月15日、元忠ら2000名あまりの家臣たちは籠城を開始。石田三成ら西軍が率いる4万もの軍勢を迎え撃ちました。圧倒的な兵力の差があったにも関わらず、元忠らの奮戦により、伏見城は7月18日から8月1日まで落城しませんでした。戦いが長引いたことで西軍の美濃・伊勢方面への展開が遅れ、関ケ原の戦いにおける東軍勝利の足がかりになったのではないかという説もあります。

苦しんで死んでいった兵士たちの姿

仕方のないことですが、元忠たちの亡骸は関ケ原の戦いが終結するまでの2ヶ月間あまり、伏見城に放置されました。その間に、現在でも視認できるくらい、くっきりと血がこびりついてしまったのでしょう。手形や足形だけではなく、苦しんで這いまわったと思われる、人の顔のようなものが見えるところもあります。いくら天下泰平という大義があったとはいえ、死ぬ時は誰だって苦しいもの。天井を見ると、志半ばで死んでいった兵士たちの断末魔が聞こえてくるようです。血天井のある一部の寺院では、雨の日にはより一層、血の跡が浮き出てくると言います。