天使

天使とは

天使のイメージ

天使とは、キリスト教やイスラム教における神の使いのことで、各教典や伝承などに登場する存在のことです。主な位置づけとしては、神と人間との間に置かれている霊的な存在で、神の意志を伝える役目を担っています。天使は英語で「angel」と書きますが、その由来はギリシャ語の「angelos」という「使者」を意味する言葉にあるといわれています。ヘブライ的な伝統においては、ミカエルやガブリエルなどの名で登場します。

キリスト教における階級

キリスト教においては、天使には階級があるといわれています。これは、神秘思想家であった偽ディオニシウス・アレオパギタの著「天上位階論」の中でつづられているといわれているもので、そこでは天使の階級は「三つの階層」に分かれているといいます。その三つの階層とは、「父」「子」「聖霊」です。

父の階層(ヒエラルキー)には、熾天使(してんし)、智天使、座天使がいます。熾天使については最高位の天使として知られており、ヘブライ語ではセラフィムと呼ばれ、三対六枚の翼を持っているといわれています。その翼の用途は、頭と体を4枚の翼で隠し、残り2つの翼は飛ぶためのもの。熾天使の「熾」とは、「燃える」という意味で、ヤハウェ神への愛と情熱によって体が燃えている様を示しているといわれています。

子の階層には、主天使、力天使、能天使がいます。中でも主天使は、神の威光を知らしめるために、日々働いているといわれています。主天使のシンボルは「笏(しゃく)」と呼ばれる細長い板で、重要な儀式や神事に用いられるものです。その統治・支配を意味する名を象徴しています。

聖霊の階層には、権天使、大天使、天使がおり、権天使については、国家や指導者の守護を担う役割を持つといわれています。

天使の姿・形について

天使が描かれる姿や形は、人間より高位の存在であり、天界と現実世界とを行き来するという定義上、旧約聖書では翼を多数持つ神聖なる姿や、身体中に目がついている姿など、さまざまな異形の姿で描かれています。これは、目に見えない力・霊的存在という概念と、異教の影響が入り交じることで表現されたもので、異様な姿・非人間性を意味するともいわれています。しかしながら、ローマ神話、ルネサンスを経て、異形の天使はすっかり成りをひそめ、美形で童子の姿を持つ天使たちが描かれるようになりました。

大天使ミカエルとガブリエル

天使といえば、まず第一に取り上げられるのが「大天使ミカエル」です。聖書に名前が登場する2人の天使のうちの一人です。そのミカエルという名は「神に似た者」という意味を持ちます。天界における大軍の総指揮官といわれているため、その描写は鎧姿で剣を携えた勇猛なイメージが主流となっています。また、サタンと双子という説や、イエス・キリストと同一視されることもあります。

一方、聖書に登場するもう一人の天使は「ガブリエル」です。その名は「神の英雄」などの意味を持ちます。正義と真理を表す剣を携え、死と審判を司るといわれています。ガブリエルが登場するシーンで有名なのが、預言者モーセの遺体の搬送シーンです。新約聖書では、主に神のメッセージを伝える役目を担っており、聖母マリアにキリストの受胎告知をしたことでも知られています。このことから、ミカエルとは対照的に、女性らしい姿で描かれることが多いのが特徴です。

堕天使とは

天使の中でも、堕天使と呼ばれる、天使から悪魔へと転身し、神に逆らう天使の存在があります。悪魔と同じように、人間を堕落させる存在であるといわれ、キリスト教における「ルシファー」が最も有名です。ルシファーは、魔王サタンと同一視される存在で、神に背いたのは、「神の似姿として作られたアダムに拝礼せよ」という神からの命令を、嫉妬により拒んだ経緯があるといわれています。これにより神の怒りをかい、天を追放されたのです。

この天使と堕天使、つまり悪魔との戦いは、過去に数々の画に描かれてきました。例えば、キリスト教の宗教画で定番なのが、サタンを踏みつけるミカエルの姿です。ミカエルはこのとき、騎士として長い金髪をたくわえ、背中には羽根、鎧をまとった姿で、神に背いた存在を罰する代行者として描かれます。サタンが堕天使の大軍を率いて反旗を翻したときも、ミカエルは天使の大軍を率いてそれに対抗し、見事にサタン軍を退けたといわれています。

天使は現代でも必要な存在

天使の概念が聖典によって広まり、やがてキューピッドのような姿で描かれるようになった近世の歴史の中で、近年、カトリック教会の神父によって、その童子の天使像は真の姿ではないと語られました。天使には翼はなく、その姿を見ることはないのだといいます。この神父は、クリスマスに広がる誤った天使のイメージ像に、懸念が隠せないという見解を持っています。とはいえ、天使という存在がいまだに現代でも必要であることから、容認せざるを得ないとも語っています。