崇徳天皇

崇徳天皇の出生

崇徳天皇のイメージ

崇徳天皇は、日本の第75代天皇です。1119年、鳥羽天皇と中宮の藤原璋子の間に第一皇子として誕生。曾祖父である白河法皇の寵愛を受け、若干5歳で皇太子に即位しました。実は、母である藤原璋子は白河法皇が贔屓にしていた女性であったため、崇徳天皇の本当の父は白河法皇であったという説があります。真実は明らかになっていませんが、少なくとも崇徳天皇は幼い頃から父である鳥羽天皇に嫌われ、疎んじられていました。

悲運な天皇としての歴史

崇徳天皇は、日本の天皇史上際立って不遇の扱いを受けた人物だと言われています。それ故に、死後に都で起きた数々の不幸が崇徳天皇の祟りだと噂されたのでしょう。

崇徳天皇は保安1123年に天皇に即位しますが、これも白河法皇の強い後ろ盾によるものでした。鳥羽天皇を退位させて幼い自分の孫を天皇にすることで、院政の実権を握ろうと考えたのです。1129年、白河法皇が亡くなったことで鳥羽上皇は権力を持ち、崇徳天皇は徐々に微妙な立場となります。1134年、鳥羽上皇は男児である体仁親皇を授かり、即崇徳天皇の養子にしました。その上で、体仁親王が即位すれば、その父にあたる崇徳天皇が院政を始めることができると持ちかけたのです。1142年、鳥羽上皇は一見したところ約束通りに崇徳天皇を退位させ、その異母弟にあたる体仁親王を近衛天皇として即位させました。しかしその際、鳥羽上皇のたくらみによって体仁親王は崇徳天皇の「皇太子」ではなく、「皇太弟」とされてしまったのです。それによって、天皇の親ではない崇徳上皇は院政の権利を失いました。その後、病弱だった近衛天皇が死去した際には、「崇徳上皇が呪い殺した」という謂れのない噂まで広まりました。それを信じた鳥羽法皇は、崇徳上皇の実の息子である重仁親王ではなく、自身の息子であり崇徳上皇の同母弟である雅仁親王を、後白河天皇として即位させたのです。これによって、崇徳上皇が院政を行う道は完全に絶たれました。自身の父によって徹底的に排除されて政治から遠ざけられた崇徳上皇は、暗澹たる思いで日々を過ごすことになります。

1156年、鳥羽法皇が亡くなった際、崇徳上皇は健気にも見舞いに行きたいと申し出たと言います。しかし、鳥羽法皇はそれを拒否し、崇徳上皇には自分の亡骸さえ見せないよう周囲に命じたと言われています。

保元の乱から讃岐への流刑

鳥羽法皇の死を機に、崇徳上皇は当時政界から外されていた藤原頼長、平忠正などと共に後白河天皇派と衝突をします。これが「保元の乱」です。しかし、圧倒的な兵力の差で敗北し、皇位をはく奪されて讃岐(香川県)へ流刑となりました。

元来性質が穏やかであった崇徳院は讃岐で仏教を心の拠り所とし、和歌を楽しみ、讃岐の民からも好かれていたといいます。崇徳院はその地で、戻ることのできない都を想いながら写経を行い、自分の代わりに京都に収めてもらうよう後白河天皇に送りました。しかし、後白河天皇はそれを呪詛ではないかと疑い、送り返したのです。父親にも弟にも裏切られ続けた崇徳院は怒りに震えて舌を噛み、その血で写経に「日本国の大魔縁となり、皇をとって民を皇となさん この経を魔道に回向す」と書き足しました。絶望に支配された崇徳院は髪の毛や爪を伸ばして荒れ果て、その姿は天狗のようであったと言われています。生きながらにして怨霊になった、と語り継がれているほどです。

崇徳院の死去にまつわる怨霊伝説

崇徳院は1165年に讃岐の地でその生涯を閉じますが、死因は不明です。都からの刺客による暗殺だという一説もあります。

崇徳院の遺体が入った棺桶からは血が溢れ続けて周辺を赤く染め、荼毘の煙は風向きに逆らって都のほうへ流れ続けたと語られています。朝廷は崇徳院の死に対し、喪に服すことさえしませんでした。

崇徳院の死後、後白河天皇の近親者の間で変死が相次ぎ、恐ろしい出来事が次々に発生することとなります。後白河天皇の側近が何名も処刑された鹿ヶ谷事件や、平安京が大きく焼失した安元の大火。強風や飢饉なども起こりました。人々はその異変を崇徳院の祟りだと信じて疑いませんでした。後白河天皇は取り乱し、怨霊鎮魂のため、「崇徳院廟」を設置。他にも複数の神社で祀ったとされていますが、その後も日本では100年ごとに大きな災いが起こることとなりました。そして1872年、とうとう明治天皇が即位にあたり、崇徳院の御霊を京都へ帰還させ、「白峰神社」を創建したのです。

このような凄まじい記録によって、崇徳院は平将門、藤原道真と共に日本三大怨霊伝説の1人となっています。

崇徳院の歌

崇徳院は在位中から和歌を楽しみ、有名な歌が多く残っています。百人一首の「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすえに あはむとぞ思ふ」という有名な恋の和歌は、崇徳院のものです。波乱万丈な人生にも関わらず、美しい歌ばかりを残したところに心の豊かさを感じます。

流刑になったあとも和歌を詠み、国府役人の綾高遠の娘との間に一男一女をもうけたという崇徳天皇。700年もの間人々を祟ったとは信じがたい、置かれた場所で懸命に生きる穏やかな人柄を感じます。果たして数々の災いは本当に崇徳天皇の祟りだったのか、真相は闇の中です。