天神信仰(菅原道真)

天神信仰とは

天神信仰(菅原道真)のイメージ

天神信仰とは菅原道真の神霊を祀る信仰のことで、「天神様」とも呼ばれています。「天満宮」とつく天神系神社には、主祭神として平安時代に実在した菅原道真が祀られているのです。始まりは火雷天神として祀ることで道真の怒りを鎮めようとした御霊信仰でしたが、時を経て学問の神様へと変化を遂げ、広く親しまれています。

菅原道真の生涯

道真は845年、学者の家系に生まれました。道真も幼い頃から学問の才能を遺憾なく発揮し、若干5歳で見事な和歌を詠み周囲を唸らせたといいます。道真はその後も熱心に勉強し、現在の大学にあたる文章生の試験に18歳で合格。その5年後には成績優秀者である文章業生に昇進。33歳のときに、歴史と詩文の指導に当たる学者の最高位である、文章博士となります。

その後、父が亡くなると同時に菅原家が経営してきた塾を引き継ぎ、多くの優秀な学者を輩出しました。一方で、道真は学者出身の政治家としても秀でた手腕をふるい、異例の出世を重ねて宇多天皇に重用されます。家柄に応じた官職に収まることなく、多くの要職を任されることとなりました。893年には司法、行政、立法の最高幹部である公卿にまで官位を上げ、その活躍ぶりは多くの妬みを買ったといいます。

899年、とうとう右大臣の位を得た道真は数々の政治改革を成し遂げ、宇多天皇の深い信頼を勝ち取ります。宇多天皇は道真の存在に安堵し、左大臣に藤原時平、その下の右大臣に道真という体制のまま醍醐天皇に譲位しました。しかし、これが道真の運命を狂わせることとなるのです。

901年、左大臣の時平が、嫉妬と不安から道真を陥れます。「道貞は醍醐天皇を廃して、天皇の弟であり道真の義理の弟でもある斉世親王を天皇にしようとしている」という作り話を醍醐天皇に告げたのです。醍醐天皇はそれを信じ込み、謀反の罪で道真を九州の太宰府へ左遷しました。大宰府に左遷されてから2年後の903年2月25日、道真は失意のなか、大宰府で死去しました。59歳でした。遺体は都へ帰されず、大宰府の近くで埋葬されたといいます。

怨霊伝説と天神信仰

道真の死後、都では疫病の流行や大飢饉など、不運な出来事が続きました。道貞を陥れた藤原時平は39歳の若さで死去。その死の間際には、時平の耳から2匹の龍が飛び出し、「無実の罪で大宰府に流され死んだ私は、今や神の許しを得て復讐するため京に舞い戻ってきた」と語ったといいます。それ以来、時平の子孫や醍醐天皇の関係者が次々に亡くなりました。923年、祟りを恐れた醍醐天皇が死んだ道真の罪を取り消して右大臣へ復し、太政大臣の位を与えました。さらに、道真の家族を大宰府から京都へ連れ戻します。しかし事態は変わらず、時平の孫にあたる5歳の幼い皇太子も亡くなりました。

930年、醍醐天皇がいる清涼殿へ凄まじい落雷がありました。突然黒雲がたちこめ、あっという間に平安京を覆い、清涼殿の第一柱に雷が直撃したのです。大勢の人が死傷した凄惨な事件でした。「藤原道真が雷神となり雷を操った」と噂されたこの事件以降、醍醐天皇は体調を崩して譲位することとなりました。

947年、人々は道真の怒りを鎮めるために、もともと火雷天神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建てたのです。

このように雷などの自然現象を起こす神は、農民にとっても丁寧に祀り鎮めるべき対象でした。そのため、人々は神社や祠を独自に作り、道真を火雷天神として崇めたのです。天神信仰はこうして各地へ広がりました。

時を経て天神、雷神としてではなく、「学問の神様」として人々に親しまれ、信仰されている道貞。幼いころから神童と呼ばれるほど優秀だった道真らしい神様へと変化を遂げました。大宰府において、身の潔白と京の平和を祈ったという道真の想いは、確実に天へと届いたようです。