平将門の首塚

平将門の首塚とは

平将門の首塚のイメージ

東京都千代田区大手町にある、天慶の乱を起こした平将門の首が祀られた史跡です。神田明神の旧地でもあります。将門塚(まさかどづか・しょうもんづか)とも呼ばれています。

平将門の略歴

平将門は、平安中期に活躍した武将です。桓武天皇の血を引き、16歳のときから朝廷で藤原忠平に仕えました。望むような出世が叶わぬまま、父の死を機に故郷の関東へと帰ります。まもなく、父の遺産を巡って一族が争うこととなりました。その戦乱は次第に激しさを増しますが、将門は次々と勝利を収めます。その武勇は京でも噂になるほどでした。938年、関東の人々は朝廷から派遣された国司の圧政に苦しみ、将門に助けを求めました。その期待に応えようと勢いに乗った将門は国府までをも襲ってしまい、朝廷の反逆者とみなされたのです。将門が庶民や弱者の味方であり、自身の立場を省みない武家であったことがわかります。将門はさらに関東独立をもくろみ、自ら「新皇」と名乗りました。しかし、即位から2ヵ月後、将門の謀反はすぐさま京に報告され、平貞盛、藤原秀郷の兵に討たれてしまいました。940年2月14日、享年38歳だとされています。後に「天慶の乱」と呼ばれる反乱でした。

平将門・死後の伝説

死後、将門の身体は茨城県坂東市の延命院に埋葬されました。しかし、首は平安京へと移され、河原にさらし首となりました。将門の首は、3ヵ月たっても一向に腐らなかったと言われています。そればかりか、夜になると目を見開いて「首と身体を繋いで一戦しよう!」と叫び続け、故郷の関東に向かって高く飛び立ったと伝えられているのです。その将門の首が最後に落下したのが、現在の首塚の地です。将門の首は千代田区大手町に落ちるまでに数回落ちたとされており、その全ての地で首塚が創建されています。

平将門の首塚・祟り

1305年、時宗の真教上人が将門塚を訪れると荒れ果てており、恐ろしい事に塚が振動したり光を放ったりしていたといいます。周辺には将門の祟りだとされる疫病が流行し、村人は怯えていました。そこで、真教上人は塚を修復し、「蓮阿弥陀仏」の法号を与えて供養したのです。さらに、近くの日輪寺と神田明神に将門の霊を祀ったところ、疫病はたちまち収束したと言い伝えられています。祟り神となっていた将門が、鎮護の神様となったわけです。

しかし、その後も時を経て将門の祟りは続いたと言われています。

大蔵省職員の死亡

1923年、将門の首塚を更地にして仮庁舎を建てようとしたところ、大蔵大臣をはじめとした工事関係者14名が不審な死を遂げました。これは将門の祟りだと誰もが感じ、途中まで建設されていた仮庁舎は取り壊されました。

大蔵省庁舎の全焼

1940年、落雷で大蔵省の庁舎が全焼した際には、「首塚をきちんとお祀りしていないからだ」という意見を受け止めた大蔵大臣によって鎮魂祭が執り行われました。さらに、塚に古跡保存碑を建立しました。

重機横転による死亡事故

1945年、米軍が首塚を取り壊して駐車場にしようとしたところ、ブルドーザーが突然横転して運転手らが死亡する事故が起きました。将門の祟りを重く見た米軍は、この計画を取り消しました。

銀行員の発病

昭和の高度成長時代、首塚の一部が売却されて日本長期信用銀行が建ちました。しかし、首塚に面した部屋の行員が次々と病気になってしまい、お祓いを行いました。

ビル作業員の死亡

1973年、首塚を挟むように2つのビルが建設されました。きちんと供養を行って建設した方のビルは何事も起こりませんでしたが、何もせずに建設を始めた方のビルでは作業員が2人死亡し、怪我も相次いだといいます。

平将門の首塚・現在

現在も閑静なオフィス街に存在する、平将門の首塚。どの会社も首塚の移設をしようとは、決して考えていないようです。

首塚は強化ガラスで覆われ、さらにその上部にまで屋根がかけられています。手厚く保護された首塚には毎日のように人々が手を合わせているようです。周辺に置かれた蛙の置き物は、将門の首が関東に飛んで戻ってきたことから「再生する」、物や人が「帰る」などの願いを込めて供えられています。

崇徳天皇、菅原道真と共に日本三大怨霊と呼ばれた平将門。死後も溢れ出る強大なパワーに、普通の人間は今も昔もとても敵わないのでしょう。周辺のオフィスでは、首塚にお尻を向けないようにレイアウトがされているという都市伝説があるほどです。現在では勝負運アップや出世のパワースポットとして親しまれていますが、畏れを持って真剣な気持ちでお参りしたいものです。