イタコ

イタコのイメージ

東北地方とくに下北半島周辺における民間霊媒を指してイタコと呼びます。イタコは口寄せという技法を使って、死者や生者の霊を呼び出し、自分の身に憑依させて相談者と会話させることができます。その語源に関しては、アイヌ語で「神がこう告げた」という意味の「イタク」という言葉が訛ったという説、あるいは神道において神の宣託を伝える役目を担う斎巫女(イツキノミコ)が中世期以降に零落して各地方を放浪するようになり、そのうち東北地方に流れ着いた者をイチコと呼んでいたのが、さらに訛ってイタコとなったという説などがあります。

学術的分類では、イタコは修行型シャーマンに属する霊媒です。生まれながらに霊感や霊能を持った者がなるのではなく、一定の修行を通して霊能力を後天的に開発していくのです。東北の歴史においてイタコがいつ頃発生したのかは定かではありませんが、恐らくは中世期以降であると思われます。その修行過程は非常に厳しく、なおかつイタコとなれる者の資格も限定されていました。それは完全な盲目もしくは視力に障害がある女性です。そうした女性は近世以前の農村社会においては婚姻を忌避される傾向が強かったので農家の家庭に入って主婦になるという道を選ぶことが難しく、しかたなくイタコとなる道を選ばざるを得ませんでした。

イタコとしての弟子入りは記憶力の旺盛な幼年期のうちにするのが最上とされ、多くが初潮を迎える直前の少女のうちに入門することになります。先輩のイタコに弟子入りした少女たちはその師匠の家で炊事洗濯などの下働きをしながら、二年から四年程度の修行を続けます。師匠の身の回りの世話を続けながら、徐々に巫術や祈祷について学んでいくのです。

最初に憶えるのは口寄せなどの儀式の際に唱える経文や祭文、祝詞、真言などの様々な呪文です。膨大な量の呪文集を口伝てのみで残らず暗誦します。間違いは決して許されず、一言一句違わずに記憶できるようになるまで何度でも繰り返されます。視力障害を持っている少女にとって、それは本当に厳しい日々であったと推測されます。

年数を経て呪文の暗誦が完了すると、いよいよ霊媒として独り立ちするためのイニシエーション(通過儀礼)を受けることになります。それは神憑(かみづけ)と呼ばれる儀式で、それを執り行う一、二週間前より穀断ち・火断ち・塩断ちなどの断ち行を課せられます。さらに水垢離などの精進潔斎を重ね、身を清めて神の使いとなる日を待ちます。

やがて神憑の当日になると、師匠であるイタコの家に入門者の少女の両親や兄弟姉妹を初めとする多くの人々が集います。そうした人々が見守る中で、師匠と弟子は向かい合いとなり、ひたすら経文や祭文を唱え続けるのです。この経文の唱詠は入門者が失神するまで続けられます。これは人為的に極限のトランス状態を作り出し、入門者に霊を降ろさせることを目的としています。降りてきた霊は師匠によって審神(さにわ)され、弟子の守護神と守護仏の名が明らかとなります。

これをもって神憑式は終了し、師匠から免許状とともにイラタカ数珠や梓弓などの巫具を授けられます。

イタコは現代においても東北各地に現存しています。彼らが活動する場として一番有名なのは毎年恒例の恐山大祭(七月二十日~二十四日)と川蔵地蔵堂で開かれるイタコマチですが、それ以外の時期には自分が居住する地域において人々の相談事に乗ったり、祈祷を行ったりして生計を立てています。また、地域の集会所で降霊鑑定を行っていた「陸奥鑑定所」などは有名です。ただ、イタコの総数自体は年を追うごとに激減し続けており、新たな後継者も皆無に近い状態です。このままでは早晩、イタコの伝統自体が消え去ってしまう恐れも出ています。

しかし、その一方でイタコの灯を消すまいと努力している人々もわずかながら存在します。

イタコの中でもとくに霊能が高く、どんなことでも的中させてしまう者はカミサマと呼ばれ、地元で崇敬される存在となっていますが、中にはこうした一部のイタコの高名を慕って弟子となる志望者もいるそうです。現に一部の霊能鑑定所では、イタコ直伝の口寄せや祈祷を用いて相談業務を行っている霊能者も存在しています。

霊能力の観点からイタコを分類すると、視力障害を伴った霊媒能力者ということになりますが、相談者の求めに応じて口寄せだけでなく祈祷や供養などを行うこともあるので、そういう意味では霊媒であり呪術者でもある存在と言えるでしょう。

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