御船千鶴子

御船千鶴子のイメージ

御船千鶴子は、に熊本県で生まれました。彼女は、透視能力を持った超能力者で「千里眼」と呼ばれた人物として、賛否両論ありつつも知られています。

生まれつき難聴の傾向があったそうですが、感受性の豊かな子供だったと言われています。結婚後、夫が紛失したお金が姑の仏壇にあったことを透視して言い当てたことから、姑は責任を感じて自殺未遂を起こしました。これをきっかけに、彼女は離縁されてしまいます。しかしこの後、姉の夫に透視能力を買われ、催眠術による誘導を経て透視能力の扉が開かれていくのでした。

霊能力の開花後は、修練を積みつつ、透視能力で日露戦争での撃沈された戦艦の内部や、万田炭鉱の発見など、数々の成果をあげていくことでその名を徐々に知られるようになっていきました。姉夫婦の治療院では、透視能力による治療も行っていたことから、御船千鶴子は「千里眼」と呼ばれるようになっていったのです。

やがて御船千鶴子の超能力を科学的に証明(解明)しようと、数々の学者が研究対象として彼女に接触するようになりました。なかでも、京都帝国大学医科大学の今村新吉と、東京帝国大学文科大学の心理学者である福来友吉助教授の2人は、彼女に透視実験を行ったことで知られています。対象物に触れず、また背を向けた状態で対象物を言い当てる透視実験は失敗をしました。ですが壺に名刺を入れて、その壺を触れた状態で透視をすると、その名刺に書かれた名前を透視して見事に言い当てたとされています。福来助教授がこれを心理学会で発表したことで、彼女は透視能力者としてその名が世間に広まっていくのでした。この御船千鶴子が透視能力者として知られると同時に、「我も千里眼である」と名乗り出る者も複数現れたと言われています。そのひとりとして知られているのが、念写や透視能力を持つと言われている長尾郁子です。

しばらくの後、今度は東京帝国大学の元総長である山川健次郎(物理学)が、彼女の透視能力の実験を行いました。しかし、これが悲劇の切っ掛けとなったのです。実験に当たって彼女が、実験道具を自分の都合の良いようにすり替えたと疑われてしまいます。このことが、世間の人に透視能力自体に疑いの目を向けさせることとなり、結果として大きなバッシングを受けてしまうのでした。心労極まった御船千鶴子は、結局服毒自殺をしてしまいます。享年24歳、広く世間に知られた透視能力者は、自らの手で人生に幕を降ろしたのでした。

彼女の自殺に対し、世間からの悪評に耐えかねたという理由がもっともらしく語られています。ですが一方で、実は親族間の争いに嫌気が差していたという説もあります。義兄の治療院での彼女の透視治療は好評を得ており、治療院は彼女のおかげで成功していると言っても過言ではない状況だったとか。それに便乗しようとしたのが彼女の父親で、娘の透視能力を利用してもっと儲けようとあれこれ画策してきたとされています。義兄と実の父が自分の能力で争い合い、富を得ようとする姿に耐え切れなかった末の自殺とも言われているのです。

では御船千鶴子は、本当に透視能力者であると認められるのでしょうか?実は彼女の透視実験には、数々の穴があると言われています。実験の最中、彼女は立会人に背を向けている、あるいは別室で実験を行うなど、彼女の手元を監視する人物は皆無であったと言います。つまりこのことから、いかさまをしているのではないかと疑われていたのです。糊付けされた封筒の中に入れられた紙に書かれた文字を透視する際も、糊付けをはがして中を見て、また糊付けをして封筒を元の状態に戻していたのではという疑念もあります。山川教授が行った透視実験は、鉛の菅の中に詰めた紙に書かれた文字を透視するという内容だったのですが、彼女は先に手渡されていた福来助教授の菅の中を見て、それとすり替えたのではないかと疑われました。そもそも、なぜこのように霊能者(超能力者)にとって都合の良い環境で実験していたかというと、当時は学者よりも霊能者の方が立場的には上だったという理由があります。学者側は「実験をさせていただく」というスタンスだったため、実験の際も霊能者側の希望をのむ以外になかったそうです。御船千鶴子のすぐ後に名乗りを上げた千里眼・長尾郁子は、御船千鶴子よりももっと厳しい条件をつけて、自分に都合の良い環境の中で実験を行っていたと言われています。

結局のところ、透視能力者として確たるお墨付きはないものの、透視治療は好評を得ていた事実、そして悲劇的な最期を遂げたことなどから、彼女の名前はこうして残っているのです。また、御船千鶴子は、透視能力者として多くの小説などに登場しています。なかでも、鈴木光司氏の著作「リング」の主人公である貞子の母・山村志津子は、御船千鶴子がモデルになっています。