長尾郁子

長尾郁子とは

長尾郁子のイメージ

長尾郁子(ながおいくこ)とは、明治時代末期に現れた、透視と念写能力のある香川県の女性です。同じ能力を持つ御船千鶴子が世間で話題となり、その報道に刺激を受けて35歳のとき自ら修行を行い、その力を身に着けたとされています。的中率の高さが話題となって、御船千鶴子の透視の実験にかかわった学者・福来友吉の目に留まり、長尾は透視と念写の実験にかかわるようになりました。

長尾郁子の能力は当初、御船千鶴子に劣ると言われていましたが、実験方法については実験の監視をする観察者に背を向けて行っていた御船千鶴子と違い、観察者と対面で実験を行っていたため、詐欺の疑惑をかけられることが少なかったとされています。彼女の能力は、口を清め、体を撫擦、眉間のあたりで合掌をして行われました。

長尾郁子の透視実験

福来が郁子に行った透視の実験とは、現像前の写真の乾板上に撮影された文字を透視するというものでした。郁子の透視は失敗に終わったのですが、実験後その乾板上に感光が見られ、これは郁子が透視した際、精神作用によって感光したもので郁子の念写によるものである、と福来は確信。以来、福来は「念写」の実験を続けました。数度の実験で、複雑な文字も成功に導くことができたとされます。また透視能力に関しても、数回における実験で数度は成功し、郁子の能力は認められるものとなっていきました。

また福来以外にも、郁子の念力の実験を行っていた人物がいました。京都帝国大学の三浦恒助という学生で、同じく郁子に実験を依頼しました。三浦は、この能力は精神作用ではなく物理現象であると発表、念写を導く光については「京大光線」と名付けたのです。これは心理学界と物理学界の間で、後に物議を起こすことになりました。

これらの騒動を受けて、もともと福来の念力の見解に疑問を持っていた学者の山川健次郎が興味を抱き、彼が中心となって郁子の念写と透視の実験を再び行うことになりました。ちなみに福来もこの実験には同行しています。しかし、郁子は疑り深く神経質な性格で、以前も予備実験用の手紙が開封できないように封印されていたことに気分を害し、実験後に開封を希望するという行為を行っています。なぜなら封印されることは、自分の能力に疑いがかけられているようで不快だからという理由です。山川が行う実験に関しても、郁子は自分の能力に疑いをかけられると「精神統一ができず、力を発揮すること不可能である」と訴え、条件を提示したと言われています。それは、

  1. 実験者が作った問題は、実験室ではなく最初に準備室に置く。全員が実験室に入り、郁子の許可がでたら問題を実験室に持ち込む。
  2. 持ち込まれた実験用の問題には封印も糊付けも不可。準備室で問題を書く際、書いた後に書き直しは不可。
  3. 写真乾板に念写する文字は、長尾郁子が指定する。脳裏に焼き付けるため、前の夜までに申し出ること。

の3点でした。実験を監視する観察者にとっては、詐欺を防ぐために、問題は直前に郁子に渡し、糊付けや封印もし、文字も指定したいところですが、郁子はそれらはすべて自分の能力を疑う行為であると拒否、この主張は学者たちの反感を大いに買うことになったと言われています。

透視、念写実験の末に

それでも郁子の主張を受け入れて、実験は行われました。しかし、その実験の際、実験室に保管していた写真乾板が紛失する事件が発生、山川らが謝罪して実験は続行されましたが、この失態により学者たちは世間のバッシングを受け、郁子も学者の一部から「念写と透視は詐欺だ」との見解を突き付けられてしまうのでした。郁子は学者への不信感を募らせ、それ以降、学者による実験を拒否し続け、に肺炎によりこの世を去ったのでした。これらの念力と透視の実験の記録は、山川とともに実験に参加した学者・藤教篤、藤原咲平の著書「千里眼実験録」に記されています。